
TITLEタイトル
-
幼少期 ― 恥ずかしがり屋だけどしっかり者
静岡県静岡市駿河区に生まれ、3人兄弟の真ん中っ子として育ちました。
私が生まれる時に父が起業したばかりで、0歳から保育園に入園していました。2つ下の弟が生まれ、母曰く「父の事業が忙しくて、私はあまり手をかけられなかった」とのこと。
その代わり小さい頃からとてもしっかりしていたそうです。2歳の頃には会話も達者で、保育園でのトラブルも説明できる子供だったと聞いています。保育園では母に甘えられなかった分、先生の後ろをくっついて歩く子供でした。先生のお手伝いをして褒められることが嬉しく、友達と遊ぶより先生の役に立つことに喜びを感じていました。
友達は少数精鋭で、2〜3人の親しい子とは楽しく過ごしましたが、それ以外の場では恥ずかしがり屋で上手に話せませんでした。ただし、責任感の強さは小さな頃から健在。発表会や鼓笛隊では堂々と取り組み、「やらなきゃ格好悪い」とやる気満々で臨む姿勢を見せていました。

-
ピアノとの出会い
保育園の年長の頃、オルガンを習っている友達に憧れて「オルガンを習いたい!」と両親に懇願。定員のためオルガンは断念し、ピアノを習い始めました。音符を読むことから始まったレッスンでしたが、「いつか素敵に演奏したい」と想像するだけで楽しく、週1回の教室が待ち遠しい時間となりました。

-
小学校低学年 ― 学校に馴染めず
小学生になると保育園との違いになじめず、登校が辛くなりました。外で元気に遊べない性格から友達にも馴染めず、それでも親を困らせたくなくて我慢して通っていました。当時、家にはピアノがなく、粗大ゴミから拾ってきたオルガンが練習相手。放課後はオルガンの前に座り、楽器演奏に心を癒されていました。
小学2年になると九九の発表が大の苦手で、クラス全員の前で最後まで残ってしまうこともしばしば。学校への苦手意識はさらに強まりました。

-
小学校中学年 ― 勉強との出会い直し
小学3年になると担任の先生が変わり、理科や算数の授業に魅力を感じるようになりました。
真面目に授業を聞いているうちに勉強が楽しくなり、理科や算数で満点を取れるように。他の教科も自然と理解できるようになり、勉強が大好きに変わりました。
ピアノではピアノ本体がない悔しさを抱えながらも「絶対に上手くなってやる」と強い気持ちで練習に励みました。
-
小学校高学年 ― 委員活動と習字
小学4年では学級委員に推薦され、責任ある役割にやりがいを感じるようになりました。
また書写の代表に選ばれ、自宅で練習を重ねました。5〜6年では学級委員や生徒会役員を務めました。真面目な性格から「無駄な会議は嫌い、本気で取り組みたい」と思う熱い小学生でした。
ただし体育は苦手で、マラソン大会や運動会は嫌いなまま。「体育がなければ学校生活はもっと快適なのに」と思っていました。

-
中学校 ― 陸上との挑戦
中学ではあえて嫌いな運動に挑戦しようと陸上部(長距離)に入部。家族や友人を驚かせました。
姉が陸上部経験者だったため、一緒に朝練をして支えてもらいましたが、1〜2年は入賞できず、努力しても才能に勝てない現実を痛感しました。しかし「両親に勉強以外で誇れる成果を届けたい」と強く願い、3年生で市大会7位に入賞。仲間や先生に祝福され、大きな達成感を味わいました。

-
摂食障害との出会い
勉強と陸上にのめり込む中で食欲が落ち、体重は半分に。母に連れられて病院に行き「摂食障害(拒食症)」と診断されました。中学3年の3学期は卒業式以外ほとんど登校できず、自宅療養の日々。歩行も困難になり父におんぶされることもありました。
「勉強や運動に打ち込みすぎて、この先の人生を何十年も続けていけるのか…」という迷いと、環境への葛藤が重なり、生きる気力を失っていた時期でした。

-
自宅療養の日々
自宅療養といっても、毎日ただ自宅で寝ているだけ。月に一度ほど病院に通っていました。
布団が重たくて息ができないと感じるほど体調が悪く、1日に 500mL の水分も摂れないときは「点滴に来てください」と言われるほど、非常に危険な状況でした。月に数回、点滴を打ちに行く生活でした。
-
小さな“やりたいこと”を書き出す
医師に「やりたいことを紙に書いてみるのも良い」と言われ、
『家族で旅行に行きたい』『京都に行きたい』『パフェを食べたい』『かわいい洋服を着たい』……と小さな願いを書き出しました。
家族は私に気を遣って過ごしてくれ、食欲がない日が続く中でも、その心配に触れるうちに「もう少し生きてみよう」という気持ちが芽生えました。
とはいえ、ほぼ水分だけの生活が続いたため固形物が食べられない状態に。つらかったですが、少しずつ消化の良いものから口に運びました。
-
外出許可の目標
診察の際、「いつになったら一人で外出していいですか?」と尋ねると、医師は「体重が38kgになったら」と。まずはそれを目標にしました。
-
高校受験と卒業式
そうしているうちに高校受験の日が来ました。先生方の配慮で保健室などの特別室に机を設けていただき、受験できるはずでしたが、当日は体調が戻らず受験できないまま卒業式を迎えることに。
当時の体重は25kgほど。長時間起立できるか、途中で倒れないかという周囲の視線を感じながら、壇上でぼうっと立っていた記憶があります。合唱も練習できておらず、口パクで、感情のないまま立っているのがやっとでした。
-
回復と“小さな自由”
自宅療養の甲斐あって、半年ほど経ち体重は20kgから38kgまで回復。
回復するにつれ、やりたいことを自由に選んで行動できる楽しさを感じました。勉強や陸上にのめり込みすぎていた反動もあり、何にもとらわれず動けることが嬉しかったです。
同時に「このままでは良くない。みんなに迷惑をかけないよう、自分の道を決めて歩こう」と考えるようにもなりました。
-
原付免許と電子ピアノ
中学卒業から2か月後、原付バイクの免許を取得。海沿いの国道150号線を走るのが楽しくて、行動範囲が一気に広がりました。
この頃、父が電子ピアノを買ってくれました。いつもお下がりばかりだった私にとって高価な贈り物は嬉しくてたまらず、今も我が家にあります。電子ピアノなのでヘッドフォンをつけて夜も演奏できるのが新鮮でした。
-
フリーターとして働く選択
先生や両親からは「1年遅れてでも高校へ」と勧められましたが、親に負担をかけたくない思いから、自分で求人誌を見て楽しそうな仕事を探し、アルバイトを始めました。
パスタ屋、アイスクリーム屋、神社の巫女、イベント受付、製造ライン、食品加工工場、自動車修理工場、単発派遣、温浴施設の受付……とさまざまな仕事を経験。自分で稼いだお金で自由に生きる楽しさを知りました。
当時は「お嫁さんになるのが夢」で、正社員志向はなく、キャリアウーマンにはなりたくないと思っていました。それでも仕事では責任ある役割を任されることも多く、しっかり者としての自覚も芽生えていきました。
-
ネイルとの出会いと努力
17歳で静岡市内のネイルスクールに入学。時給680〜700円のバイト代を貯めて100万円を用意しました。父には当初反対されましたが、自分で貯めたことを伝えると最終的に学費を出してくれることに。親の有難さを強く感じました。
最年少ながら負けたくない気持ちで毎日練習。入学時は35番前後の番号でしたが、卒業時は5番という、学校始まって以来の最短期間卒業となりました。
-
車の世界に触れる
18歳で自動車免許を取得。父(自動車修理工場経営)に同行し、走行会やジムカーナに参加。公道では味わえない操縦の楽しさとスリルに魅了されました。
自動車関連の仕事に就き、毎日陸運局に車検を通しに行くことも。箱根や伊豆、東京へ日帰りドライブも日常でした。長距離運転は苦にならず、運転手役を喜んで引き受けていました。
-
結婚・出産、そして起業
>22歳で結婚し、その後男児を出産。「絶対にこの子を幸せにする」という思いは今も変わりません。
夫とは性格の不一致があり、息子が2歳のときに別居。別居前から「稼ぎたい」という一心でネイルで起業しました。右も左も分からない中で多くの失敗と学びを得ながら、若さと行動力で挑戦を続けました。
-
ビジネスプラン最優秀賞とラジオ
信頼を得るため『静岡ビジネスプランコンテスト』に出場。最終審査に残り、最優秀賞を受賞。
その流れでラジオのアシスタント依頼をいただき、浜松と静岡の2拠点で番組に出演。話すのは苦手でしたが、「相槌の打ち方」を調べて臨み、最終的に約7年間、ラジオのしゃべり手**を務めました。台本なしでも落ち着いて話し、相方にツッコミも入れられるまでに成長しました。
-
受賞・登壇と多忙な20代
ネイル事業ではビジネスプラン最優秀賞、静岡県知事褒賞、経営革新計画の激励賞などを受賞。
働くママ向けセミナー講師や大学での対談登壇など、多くの場で話す機会に恵まれました。
一方で、仕事・家事・子育てに追われ、ピアノを弾く時間はほとんど取れないまま。「いつか本物のピアノを手に入れたい」と胸に秘めつつ、目の前の仕事に全力で向き合った20代でした。
-
不動産への転身と覚悟
ネイルでの経験を通じて、不動産の仕事への思いがさらに強くなりました。強みを生かし、かつ確実に成功したい(失敗すれば息子を路頭に迷わせてしまう)。
息子が高校生になる前に不動産で起業する計画を立て、思い切ってネイル店を畳み、不動産業界へシフト。
「起業後に失敗は避けたい」と考え、まずは経営者ではなく勤め人として修行する道を選択。起業後2〜3年は休み不要と覚悟を決め、ピアノも車のイベントも封印しました。
-
修行プランと実績
当初の計画は「1年目:賃貸/2年目:買取再販/3年目:売買仲介」。
実際は 1年目:賃貸、2〜3年目:買取再販、4年目:売買仲介 と、4年で修行を完了し、創業へ。
この間、月に50〜70社の不動産会社へ営業に回り、多くのご縁を得られたことは今も大きな財産です。
-
空き家問題への志
営業の現場で常に直面したのが空き家問題。
「会社が黒字ならそれでいい」ではなく、地域社会に貢献する事業でありたい。静岡で一番ノウハウを深め、将来の空き家問題の解決に役立てるよう、創業当初から空き家問題に注力してきました。
(表記は「空き家」に統一)
-
働き方から学んだこと
修行先の不動産会社は事業だけでなく働き方も最先端でした。シングルマザーでも正社員として稼げる環境に感動。
経営者は仕組みを改善し続けるべきだと学び、内部の仕組みづくりが成果を大きく左右することを痛感しました。
だからこそ私は「空き家問題」への取り組みに加え、会社の仕組みづくりも徹底して、自分が理想とする会社を形にしていこうと決めました。
-
独立のきっかけと想い
独立する際には、ただ営利目的で活動するのではなく、「静岡を元気にする!」をモットーに、社会問題となっている空き家問題に注力して営業活動を行ってきました。
一企業として、静岡に価値ある活動を提供することこそが本来求められている姿だと感じました。何より、日々空き家問題に直面する仕事をしてきたことから、1件でも多くの「困った空き家」を解決できる活動をしたいという想いを持って取り組んでいます。
-
主婦が働きやすい環境づくり
私自身がシングルマザーとして子育てと事業を両立してきた経験から、「主婦でも働きやすい環境づくり」を大切にしてきました。
スタッフは全員主婦ですが、それぞれが無理なく力を発揮できるよう、「仕事が上手に回る仕組みづくり」を意識してきました。
その結果、自然と業務の効率化が進み、不要な作業を省くことでコスト削減にもつながったと感じています。
-
チームワークと感謝の気持ち
チームワークも抜群で、協力し合える職場づくりができたことを誇りに思っています。
事業を通じてたくさんの素敵なご縁をいただけていることに、日々感謝の気持ちでいっぱいです。
-
今後の展望
これからもさらに空き家問題に注力し、空き家解決のノウハウを深めていきたいと考えています。
静岡で最も空き家問題に真剣に取り組む会社となり、その実績が次のお客様のお役に立てるような「良い循環」を生み出したいと思っています。
また、弊社の活動を通じて、社会問題に耳を傾け、一人ひとりが「自分ごと」として行動できるような地域づくりに貢献したいと考えています。
そうした積み重ねによって、静岡がより素敵で、人の温かさにあふれた街になっていくことを願っています。